2012年5月10日木曜日

月別アーカイブ : 201201 | Sports I Need


2012年01月28日

ナカジ 夢の舞台への再挑戦

ライオンズのユニフォームに再び袖を通した中島は   こちらの心配をよそに、清々しい、吹っ切れた表情で我々の前に現れた。     「日本一に向け気持ちは切り替わっている。」     つい先日、ポスティングでのメジャー移籍が頓挫したばかり。     本音は悔しい部分もあるだろう。       「メジャーは夢だったんじゃないのか。結局金か。」   「実力がないからだ。」   「控えだって仕方ないなだろ。甘えるな。」     そんな罵詈雑言も多く耳に入ったに違いない。       しかし、私は契約内容を見る限り   批判を恐れずに言えば、契約しなくてよかったと思っている。     それは、6年間控えを明記されてたと言われる契約だ。     試合に出てなんぼの世界。   1年が勝負の厳しい世界。     そんな野球人として、競争すらさせてもらえないということは   アスリートとして死を意味する。     この悔しさを今年晴らし、胸を張ってアメリカへ。     ナカジの再挑戦が始まる。          ライオンズはナカジ不在を想定し、   新外国人選手の獲得や、   浅村ショート、3番栗山などの構想を練っていた。     だが、中島復帰というある意味最高の補強で   チーム構成は、大きく変わろうとしている。     3番には昨年まで不動であった中島がそのまま入ることになる。     渡辺監督からの年賀状で、   「今年の3番はお前だ。」と明言されていた栗山も   その点については全く異論がないと述べている。     ショートの守備については   渡辺監督は浅村で行くことを第一に考えているようだ。     サードに中島を回し、中村がファーストを守ると言う   超攻撃的な布陣でシーズンに挑もうとしている。       私は、浅村を中島移籍後を考え   ショートにするという考えには理解はできるが   ただ、セカンドの片岡の状態が開幕までに万全ではない場合   そこに原を持っていくのか、もしくは浅村をセカンドに置き   中島をショートにするのかを注視していきたい。     私個人としては、ナカジのショートを動かすべきではないと考えている。     確かにナカジ不在の中では浅村をショートにすべきだろう。   しかし、状況は変わったのだ。     浅村にはナカジを自らの力でショートから追い出して   ポジションをつかんで欲しい。     中島は、松井稼頭央のメジャー移籍でポジションを掴んだ。     しかし、もし松井がライオンズ残留であったならば   そう簡単にショートのポジションを手には入れられなかったであろう。     ナカジというとてつもない壁に挑むことで浅村は更に成長できるはずだ。     中島にとっても、ショートを守っていたという点は   メジャー移籍が叶った場合、大きな武器となる。     いくらナカジがパワーをつけたとは言え   メジャーの中で日本人は非力の部類に入る。     そうなれば、求められるのは俊敏性や守備位置の広さだ。     確かに、近年は日本人野手の評価は下がってきている。     それでも、ナカジが来季メジャーに挑戦するのであれば   少しでも武器が多いほうが良い。     もちろん、ナカジはチーム優先で   守備位置を変えることはいとわないだろう。     それでも、私はナカジにはショートにこだわって欲しいのだ。     来年は確実に中島は海を渡っていることだろう。     それがマイナー契約であろうと   実力で上へ上がれるという条件ならば   彼は喜んで契約するはずだ。     ポスティングで世間を騒がせ   失意の帰国となった中島。     しかし、彼は今年その悔しさをバネに更に大きくなろうとしている。     有終の美を飾るために、ライオンズ日本一のために   背番号3の再挑戦が始まる。     

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2012年01月25日

再びピッチに立つために

あの雨のナックファイブスタジアムから   もうすぐ2年が経とうとしている。     塚本泰史、骨肉腫で戦線離脱。     当時、若干24歳の若者を襲った突然の悲劇。     ナックファイブスタジアムに集まったサポーターは   背番号2のタオルを握りしめ   嗚咽し、涙し、心の底から「泰史!」叫び   その声は雨降る空へとこだました。     絶望の淵に立たされた塚本。     しかし、彼は病魔と闘い続けた。       骨のガンと言われる骨肉腫。     アスリートにとって骨格を痛めつけられる事は   文字通り選手寿命が尽きる事を意味している。     しかも、塚本の病魔は右大腿骨という   サッカー選手にとって最も重要な足に襲いかかった。         ナックファイブで入院前最後のあいさつを済ませてから数日後   彼は人工関節を埋め込む手術を行った。     手術は無事成功。   しかし、その喜びもつかの間   抗がん剤投与の日々が始まった。       塚本が治療に励む中   日本サッカー界は大きな歴史の転換点にいた。     南アフリカワールドカップベスト16。     ピッチで戦っていた仲間が世界と渡り歩いている。     サッカー選手すべての憧れワールドカップ。   しかし、自分はピッチに立つことすらできない。     1年前まで、自分も選ばれるべく   必死に戦っていた。     右サイドを駆け上がり、   無回転フリーキックを決め   勝つ喜びも、負ける悔しさも   それが当たり前だった日々。     そのサッカー選手としての当たり前の日々は   突然目の前から消えたのだ。     25歳を迎えようとしていた若者には   あまりにも過酷すぎる日々だった事は想像に難くない。       しかし、塚本にもかすかな光が差す事になる。     抗がん剤治療が終了したのだ。       再発の危険は常にはらんでいるものの   現在は病魔は静かに眠っている。     「慣れ親しんだピッチへ戻りたい。」     彼は本格的なリハビリを開始した。       日常生活に戻るだけではない。     彼が目指したのは   ナックファイブスタジアムのピッチで   縦横無尽に駆け回る事。     それが塚本の夢だ。     しかし、1年が勝負のプロの世界。     ドライなチームであれば簡単に塚本は   自由契約の憂き目にあっていたかもしれない。     だが、大宮は塚本の再起を後押しし続けると決めた。       2011年、1年契約延長     そして状態を見て選手登録をすると塚本に告げたのだ。     塚本の思いをチームは分かっていた。   そして彼が戻ってくる事を真に望んでいるのである。     また、それはサポーターの思いでもあった。     大粒の涙で塚本を送り出したサポーターは   今度は喜びの涙で迎え入れたい。   そう思っているに違いないのだから。     もちろん、現実のハードルは限りなく高い。   2011年は懸命のリハビリも叶わず現役復帰はならなかった。     そんな中、2012年の塚本に注目が集まったが、   大宮は契約更新せずと発表。   塚本の現役復帰は事実上絶たれたかに思えた。       しかし、チームは塚本を支え続けるという約束を   別の形で我々に示した。       アンバサダー就任。     地域に根を下ろし、大宮を愛してもらう活動を率先して行う   いわば大使の役割を塚本に与えたのだ。     もちろんそれは現役復帰を睨んでのことだ。   いつでもピッチに戻ってこいよ、   チームはお前を待っているぞという暖かいメッセージだ。     塚本の病魔に打ち勝つ戦いはまだまだ続く。   しかし、彼ならやってくれると信じている。       2月の東京マラソンも走るという塚本。   そのゴールの先には、ナックファイブのピッチがある。     背番号2がピッチに戻る事を夢見て。     

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中国最初の皇帝は何ですか
2012年01月23日

器用貧乏が輝いた崇高な場所

ユーティリティプレイヤー。     複数のポジションを高いレベルでこなし   チームにとって、そして監督にとって   非常に使い勝手の良い選手の事を言う。       日本において、そのユーティリティプレイヤーの筆頭は阿部勇樹であろう。     JEF時代には不動のボランチ(守備的MF)であり、   アベッカムと言われた精度の高いフリーキックを持ちながら   恩師オシムがチームの監督だった時   強いヘディングを活かすために、今度はフリーキックを受ける側に回った。     そして、アテネ五輪では本職ではないセンターバック(DF)を勤め   レッズ移籍後は、センターバック、ボランチ、   そして左右のサイドバックまでこなして見せた。     JEFでもレッズでも阿部は欠かせないレギュラー選手であった。     しかし、代表では恩師オシムが病で代表監督を去り   岡田監督に代わってからというもの   そのユーティリティを重宝がられる一方   レギュラーを掴む事が出来ずにいた。     そしてワールドカップのメンバーには当然選ばれたが   フレンドリーマッチの中でも出番は少なかった。   彼は器用貧乏の烙印を押されることになったのだ。       その男に光が当たったのは、ワールドカップ目前のイングランド戦であった。     彼はアンカーとして素晴らしい働きをした。     アンカーとは守備的MFとDFの間にポジショニングを取り   DFが窮地となればそのフォローをし   守備的MFが前掛かりになれば反撃されぬようそのスペースを埋め   そして、DFとMF、FWへのパスの供給をおこなう   まさにユーティリティプレイヤーでなければ務まらないポジションを自ら手に入れたのだ。       カメルーン戦の勝利の後、恩師オシムはこう言った。   「これほど良い阿部は見た事がない。」     そして崇高なるアンカーと言う場所で輝きを取り戻した男は   日本のワールドカップベスト16に大きく貢献。   その活躍が求められ、イングランド2部のレスターへと移籍した。     レスターでは前イングランド代表監督エリクソンが指揮を執り   ユーティリティ適正の高い阿部はチームのコマ不足を補う   使い勝手の良い選手として重用された。     しかし、エリクソン退任後は出場機会が激減、   あの頃と同じく器用貧乏の選手という位置づけに陥ってしまった。     阿部は日本に帰るべきか悩んだ。     自分の特性を生かし、チームに貢献したい。   その思いは日を追う毎に強くなっていく。       そんな中、阿部が帰国し、レッズへ復帰するのではないかと囁かれている。     レッズは監督が代わり、よりパスサッカーへの比重が高まると予想されるが   現在の選手はドリブルで仕掛ける選手が多く、   パスを供給、もしくはバランスを取る選手が少ない印象だ。     阿部はまさにレッズが欲するポジションにうってつけの選手だ。     レッズにとっては三顧の礼で阿部を迎え入れるだろう。   それは、現場もサポーターも同じ思いのはずだ。     低迷するレッズに光を灯せるか。     ユーティリティプレイヤー阿部勇樹が求められる崇高な場所が   レッズにはきっとあるはずだ。     

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2012年01月23日

シンジとカズの絆

香川真司少年にとって、余りにも過酷で恐ろしい出来事だったに違いない。     1995年1月17日   阪神・淡路大震災。     幼くして死の恐怖を味わった少年には   生きていくために救いが必要だった。     彼が救いを求めたもの。     それはサッカーボールであった。       今やドイツ・ブンデスリーガの強豪、   ボルシア・ドルトムントにおいて絶対的な地位を築き   更なるビッグクラブへの移籍の噂が絶えない香川真司。     小柄な体ながら、ゴールへの嗅覚、ポジション取りは抜群。     一瞬にしてDFの陰に隠れ、突如として最前線に姿を現し   ゴールを奪い去っていく。     まるで忍者のようだと評される抜き足が   香川を一流たらしめる所以であろう。       その香川にとって忘れられない出会いがある。     阪神・淡路大震災の傷跡生々しい神戸の街で   香川はサッカーに明け暮れていた。     荒れ果てた神戸の街の片隅にあるグラウンド。   香川は来る日も来る日もサッカーボールと遊んでいたという。     将来はJリーガーに、日本代表に、世界的な選手にと   夢を膨らませていったのは想像に固くない。     そんな真司少年の運命を決定づける出会いが待っていた。   キングカズとの出会いだ。     当時キングカズこと三浦知良は   まさにJリーガーのトップであり大スターであった。   香川自身もカズのマネをしていたと言う。     その憧れのカズが、被災した子供たちを元気づけようと   香川の通っていた小学校にやってきたのだ。     憧れのカズの登場に真司少年の心は弾んだ。     この当時を振り返り、香川は   「かっこいいな。Jリーガーになりたいと強く思いました。」と   本気でプロを目指す原点であることを告白している。     一緒にサッカーをすることは出来なかったが   カズが持ってきたプレゼントをなんと香川が抽選で当て   一緒に写真もとってもらっている。       月日が流れ、香川とカズの初対戦の日がやってくる。     セレッソ大阪対横浜FCでの試合でこんなことが起こる。     前半を終えハーフタイムに入り、   両チームの選手がロッカーへと引き返していく。   その時、カズが香川に近づいていった。     「ユニフォームあげるよ。」     声をかけたのはカズだった。     実は、震災時の神戸での出会いを香川が新聞記者に話し、   その記事をみたカズが、粋な計らいをしたのだ。     あの当時小さかった少年が、今同じピッチに立ち   更に成長を続けている。     カズは優しい気持ちで香川との試合を楽しんでいた。     カズを慕う選手は数多い。     その中でも、香川は少年時代カズに触れ   サッカーへの夢を膨らませて育った   いわばカズチルドレンなのだ。     現在、ドイツで活躍するシンジを   カズは父親のような目で見ているに違いない。     たくましく育った真司少年を。   

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どのように私はドイツのウェブサイトの英語翻訳を取得するには
2012年01月22日

背番号3よ永遠に

松田直樹が横浜へ帰ってきた。     多くの友を連れて。     自分を育ててくれた横浜Fマリノス。   世界を渡り歩いた日本代表。   新天地に飛び込んでいった松本山雅。     そして、時には戦い、時には励ましあった良き仲間たち。     その姿は見えなくても、友と語らい、笑い   ボールを追いかける松田直樹がそこにはいた。         2011年8月4日   松田直樹は帰らぬ人となった。     練習中に突然倒れ、懸命の治療が続けられたが   松田がピッチに戻ってくることはなかった。     松本山雅に移籍した松田は   ことある事にこう言っていたという。     「マリノスと試合がしたい。」     松田自身、マリノスを去ることに寂しさを覚えながらも   新天地松本山雅が古巣マリノスと対戦出来る日を楽しみにしていた。       松田が亡くなった当初、松本山雅はJ2昇格の正念場に立たされていた。     準加盟申請を行い、JFL4位以上であればJ2昇格が決まるはずが   春先からの出遅れで、この時はまだ昇格圏外にいたのだ。     その真下に生まれた悲劇。     山雅の選手たちにはJ2に上がろう、マリノスと戦おうと鼓舞する一方   親友の安永にはこう漏らしていたという。       「サッカーやめようかな。」       驚いた安永を見て松田は冗談だよと笑っていたというが   激戦で悲鳴を上げた膝はもう限界に来ていたのかもしれない。     安永は、四十九日が終わると、松田の母から1本のボルトを渡されている。   それは、松田の膝に入っていたボルトだった。     松田の膝を苦しめたボルト、しかし、松田をここまで支えていたボルト。   安永は松田の形見としてそれを大切にしている。     松田の死後、松本山雅は悲しみを乗り越えJ2昇格を果たした。     その日は12月4日     「俺マジでサッカー好きなんすよ。   マジでもっとサッカーやりたいっす。」と   マリノスサポーターに別れを告げた日から   丁度1年の歳月が流れていた。     「松田直樹、松本の松田直樹。俺たちとこの街と どこまでも。」     松田の死後、J2昇格まで封印された松田のチャントが   青空にこだました。     松田の魂は、更に奇跡を起こす。     横浜Fマリノスは順当に天皇杯を勝ち上がってきていた。     一方松本山雅も横浜FCを破り、さらにはアルビレックス新潟も撃破。   得意のジャイアントキリングで勝ち進み   なんとマリノスと天皇杯の雌雄を決する戦いに挑むことになる。     雪の富山で、横浜Fマリノスと松本山雅が対戦。   まさに松田自身が望んでいた古巣との戦いが   天皇杯という真剣勝負で実現したのだ。     「ナオキ、ナオキ、ナオキ、ナオキ オレ!」     マリノスサポーターの声が、雪の空にこだまする。     試合はマリノスが貫禄を見せつけ完勝。     試合後、マリノスの選手たちが山雅サポーターへ向かっていく。   そこには「MATSUDA 3」 のビッグユニフォームが掲げられていた。     その前で頭を深々下げる選手たち。   松田への尊敬の念は今もマリノスの中で脈々と生き続けている。         そんな松田の友が一同に横浜に会した。     松田直樹メモリアルゲームと称し   現役、OBに関わらず多くの松田の仲間が集まった。   これも松田の人望あっての事だろう。     ピッチに立つ仲間は3と言う人文字を作り、黙祷を捧げた。   それぞれの思いを松田に届けるように。       しかし、それでも思うのだ。     やはり松田直樹には生きていて欲しかった。   J2に昇格した松本山雅の一員として   J1に昇格すると怪気炎を上げて欲しかった。     あまりにも若すぎる死に   私は彼のことを思い出す度に   未だに胸が痛み、悲しい気持ちがこみ上げてくる。   

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どのようにギリシャ悲劇の開発ですか?
2012年01月22日

俺は焦っている

「俺は焦っている。」     2010年南アフリカワールドカップで日本中を沸かせ、   世界に衝撃をもたらした男、本田圭佑。     その余韻冷めやらぬ中、彼はこのような発言をして   ヨーロッパ主要リーグへの移籍を熱望していた。     もっと上へ、もっと高い次元へ。     思う事は素直に口にする。時にはビッグマウスと言われ   叩かれる事もあるが、   彼は自らの言葉を刃物とし、自分の胸元に突き付けている。     自分の吐いた言葉の落とし前は自分でつける。   そうやって本田は生きてきた。     その生き方を変えるつもりはない。          本田は決してサッカーエリートではない。     彼はガンバ大阪のユースに昇格できず   石川県の星稜高校サッカー部に入部する。     ガンバユースに合格できず、石川県まで流れついた本田。   その挫折は大きかったに違いない。   しかし、その悔しさをバネに本田は成長していく。     高校時代、本田を見守っていたクラブがあった。   名古屋グランパスだ。   彼が高校在学中に、グランパスは本田を練習に参加させている。     高校サッカーで星稜をベスト4に導いた実力に   グランパスは惚れ込んだのだ。     その縁あって、複数のオファーがある中、   本田はグランパスに入団、プロ生活をスタートする。     そしてその契約条項にはこのような文言があった。   「海外からオファーがあれば移籍を認める。」     本田はすでに海外移籍を視野に入れていた。   グランパス入団に際し、本田が求めたのは海外移籍の自由だった。   すでに本田は海外移籍という言葉を発し   自らにプレッシャーをかけていたのである。       1年目からその才能の片りんを見せた本田。   2年目からは不動のレギュラーとして活躍する。   このころは左サイドバックを勤めるなど   「守備はしたくない。」と言いながら   ワールドカップにおいて  ワントップで相手DFにプレッシャーをかけ続けた原点は   ここにあるといっても良い。     その活躍が認められた本田に海外からオファーが舞い込んだ。   オランダリーグのVVVフェンロだ。     本田は名古屋との契約条項通りオランダへ旅立つ。     VVVフェンロは2部降格の憂き目にあうが、   本田はチームに残留し、1部昇格の大きな立役者となる。     そして本田の代名詞、無回転フリーキックが   ヨーロッパで注目されるのはこのころからである。     日本代表にも初選出され、高みへと昇っていった本田。   しかし、本田の目は更に高いところを目指していた。   いくつかオファーが舞い込む中、クラブ側が高い移籍金を設定し   一度移籍はとん挫する。     この時も本田は焦りを口にし、大きな不満をぶち上げていた。   「俺はもっと上に行きたいんだ。」   その飢えるような情熱に現状は満足できないのだ。     そして2009年、ようやく移籍話がまとまる。   本田を獲得したのはロシアリーグの強豪CSKAモスクワだった。     ここで本田はヨーロッパを震撼させる事となる。     2009チャンピオンズリーグ2ndレグのセビージャ戦。   本田の左足から放たれたフリーキックは   無回転のまま不規則な軌道を描き、   セビージャゴールを突きさした。     サッカーの目が厳しいヨーロッパで   驚愕をもたらした本田の左足は、ビッグクラブさえ   魅了するには十分だった。         今すぐにも動きたい。     でもそれにはCSKAモスクワとの大きな契約の壁がある。     本田はCSKAモスクワと4年契約を結んでおり、   あと1年契約が残っている。     そのとき彼は27歳。     1年勝負のサッカー選手の賞味期限の中   たとえ1年と言えども早く主要リーグへ移籍したい。     この事がより本田を焦らせる事となる。       彼の言葉の真意は、現状のみならず、   これから先の事も踏まえ発せられたのだ。     現在セリエAのラツィオが交渉に挑んでいるが   好景気のロシアに対して、イタリアは未曾有の経済危機に直面しており   おいそれと移籍金を飲める状況にはない。     また、本田は今季ケガが長引いており   回復に向かってはいるが、当然ラツィオはそのリスクを材料に   CSKAモスクワ側に更なる譲歩を求めているのだろう。     およそ移籍金に関して6億円の差があると報道されているが   移籍金を含め、両者とも再交渉をする姿勢を見せている。     本田の望みはかなえられるのだろうか。     リミットはすぐそこまで来ている。  

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2012年01月22日

雄々しい星となれ

今年は勝負の年になる。   ある意味この男の左肩に、チームの浮沈がかかっていると言っても良い。       菊池雄星。       昨年初勝利を挙げ、着々と力を付けてきた若獅子のエース候補。     左のエース、帆足の抜けたライオンズ先発陣において   彼への期待は高く、またやってもらわなくては困る存在だ。     類い稀なる才能を持ち合わせた左腕も   プロ入り後は紆余曲折の連続であった。         ライオンズ渡辺監督は、ヨッシ!と声を挙げ   喜びを爆発させたドラフト会議。     即戦力高卒ルーキーと周りは騒ぎ立てたが   渡辺監督はいたって冷静だった。     じっくり育てていく。     しかし、それとは裏腹に、   雄星の周囲はマスコミが張り付き   田舎育ちで純粋な雄星にとっては   困惑の連続であった。     プロ入り後、いきなり雄星は不運に見舞われる。   高校時代酷使していた左肩が悲鳴を挙げた。     かかる期待を一心に受けていた雄星は   痛みを訴えることができず、   更に故障を長引かせることになる。       野球ができない。       同年代としてはずいぶん大人じみた雄星ではあったが   やはり、まだ10代の若者には、この試練はあまりに辛かった。   気持ちが切れ、ふてくされる日々。     更に追い打ちをかけるように、   当時2軍打撃コーチを務めていたデーブ大久保が   突然の解雇を告げられる。     その発端は雄星であると報道され   更に雄星の心は大きく傷ついていく。     もしかしたら目の出ないドライチになるかも知れない。     口の悪い自称野球ファンからは   そのような声も耳に入るようになる。     しかし、このまま終わるわけにはいかない。     プロ1年目は、ただひたすらリハビリに打ち込み   周囲の雑音と戦いに明け暮れた日々であった。       野球をしたいという思いは   2年目に更に大きくなっていく。     ようやくボールが投げられるようになると   雄星にも久しぶりの笑顔が戻る。     キャンプ、オープン戦で雄星の回復を見た渡辺監督は   雄星を1軍に残そうと考えるようになっていく。       開幕まであと少しという中、   東日本大震災が起こる。     雄星の故郷岩手県も大打撃を受け   家族、友人、知人の安否に気を揉み   心身共に疲労の色が濃くなっていたと言う。     しかし、雄星は故郷の人たちのために   自分が野球をすることで励ましていきたいと心に誓う。     震災の影響で開幕は遅れたものの   雄星は、初の開幕一軍を勝ち取る。     しかし、登板することなく登録抹消。   それでも雄星は冷静に自分の立場を理解していた。     渡辺監督も雄星が先発ローテーションに割って入ることを期待し   二軍で先発の体作りを命じたのだ。     当時、「必ず雄星の力が必要になるときが来る。」と   渡辺監督は述べていたが、雄星も来るその日まで   準備に余年がなく、あのふてくされた1年目の雄星の面影は   もはやそこにはなかった。     その頃、ライオンズ投手陣は火の車であった。     先発陣では涌井、帆足の調子が上がらない。   岸はケガで戦線離脱、牧田は更に手薄な抑えへの転向と   先発の枚数が足りなくなってきていた。     雄星は自分にチャンスが回ってくると感じていた。   その読みは現実のものとなる。     6月12日   雄星は一軍登録され、即座にその日の阪神との交流戦で先発。   プロ初登板で先発という大役を務めることとなる。     この試合は、さすがに雄星も緊張からか連打を浴び   早々にマウンドを降りるも、味方の援護で負けは付くことはなかった。     その後大阪ドームのオリックス戦でプロ初勝利を挙げると   ローテーションを守り、シーズン4勝を挙げ   ライオンズのクライマックス進出に大きく貢献した。     そして2012年   雄星はさらなる高みへと登ろうとしている。     今年は先発ローテーションを守り   2桁勝利を目指して欲しい。     雄星ならばやれるはずだ。     それが現実となるとき、ライオンズの優勝も見えてくる。     若獅子から、獅子の大黒柱へ。     雄星よ、その名に恥じぬよう   ライオンズの雄々しい星となれ。   

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2012年01月21日

世界を魅了した右足

美しい放物線を描く彼のフリーキックは   観衆を魅了し、敵を震え上がらせ   右サイドから蹴りあげられたクロスボールは   面白いようにピンポイントで   味方の頭に合わされた。     イングランド伝統のロングパスを芸術の域まで高め   正確なキックで世界を渡り歩いた男   デイビッド・ベッカム。       現在アメリカに渡っているベッカムは   そのサッカー人生を第二の故郷ロサンゼルスで   全うしようと決意している。         正確無比なキックは若いころからすでに注目され   マンチェスター・ユナイテッド監督、   ファーガソン自慢の若手のひとりとして   「ファーガソンのひな鳥」と呼ばれた。     マンチェスターで右サイドのレギュラーをつかんだベッカムは   その美しいクロスボールでアシストを量産   更に正確なフリーキックで多くのゴールも演出した。     ベッカムは、偉大なるユナイテッドの英雄   エリック・カントナの背番号7を引き継ぎ   名実ともにユナイテッドの顔となった。       その才能は、若くしてイングランド代表にも選ばれ   98年のワールドカップにも出場。   イングランドの期待を一身に集めるスーパースターであった。     しかし、ベッカムはここで事件を起こす。   決勝トーナメントの初戦対アルゼンチン戦   シメオネの挑発に引っ掛かり一発レッドカード   チームもPK戦の末敗れ、その責任を全て背負わされた。       大会前と打って変わり、帰国後はバッシングの嵐   命さえ狙われると言うすさまじい体験をする。     ベッカムはその声を断ち切るかのようにクラブで大活躍し   98-99シーズンにはプレミア、チャンピオンズリーグ   FAカップの三冠を達成し   ベッカムここにありを世界に見せつけた。     しかし、代表での汚名は代表で晴らさなくてはならない。   2002日韓ワールドカップ予選でのギリシア戦   負けるとワールドカップ行きに黄色信号がともる試合   1-2というビハインドで迎えた後半ロスタイム   ゴール正面約30メートルの位置からのフリーキック。     ベッカムの右足から放たれたボールは   ゴール右隅へ意志があるような軌道で   吸い込まれていった。     ベッカムはイングランドサポーターの前で   両手を広げ雄叫びを上げた。   この時、彼はようやく呪縛から解放されたのだ。     そのベッカムにまた試練が襲う。   ワールドカップ目前の4月、ベッカムは左足を骨折。   出場が危ぶまれたが、酸素カプセルを活用するなど   必死の治療の甲斐もあり、どうにか代表に滑り込んだ。   しかし、その動きは怪我前とは明らかに違っていた。     因縁のアルゼンチン戦は自らのPKで勝利を納め   決勝トーナメントではデンマークに勝利するも   ブラジルに敗れ、ベスト4進出はならず。     ベッカムは怪我の影響から、   フリーキックやクロスが不発に終わり   美しい放物線からゴールを奪うシーンは   ついに見ることが出来なかった。       その後クラブでは恩師ファーガソンとの対立から   レアルマドリードへ移籍。   ジダンやロナウドとプレーをともにし   銀河系軍団の一員として活躍した。       そして世界サッカーマーケティングを狙うアメリカMLSへ移籍、   ベッカムの環境は変われど、その右足の魔力は   いつまでも健在であった。             ベッカムには夢がある。   子供たちにサッカーを教え   世界的選手を育てる事。     その夢を実現するために   世界にサッカースクールを開校しているベッカム。     その良き手本となるためにも   リーグ戦で輝きを見せてもらいたいと思うのは   私だけではないであろう。       また、今年開催されるロンドン五輪代表の   オーバーエイジ枠を熱望したベッカム。   母国開催に彼は、華を添えるつもりだ。       ベッカムのサッカーへの情熱は   衰えることを知らない。     

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2012年01月21日

運命に導かれた再戦

1999年9月4日。   私は全日本プロレスの会場、日本武道館にいた。     当時の全日本にしては珍しく   三冠戦や世界タッグの組まれていない興行となる。     しかし、会場は超満員。     その理由は全日本プロレス5大シングルマッチにあった。     発表されていたカードは     三沢-高山   ベイダー-川田(川田欠場のため三沢が1日2試合を戦った)   小橋ーグラジエーター    田上-馳   秋山-大森     しかし、試合の順番は発表されていない。   誰が何試合目を戦うのかわからないのだ。     事前に投票があり、試合順が決められるシステムを取り入れ   我々も選手の入場テーマが鳴るまで   どの試合が始まるかはわからないなど   試合以外にも、何試合目はどのカードかという   予想をも楽しめる非常に良い興行であった。     ファンは予想を立てながら会場へ足を運んだ。     どの試合がメインを取るのか。   結果として、ファンの要望は、現場サイドを驚かせることになる。       当時の全日本のエースは三沢光晴であり   序列的には川田、小橋、秋山と並んでいた。     当然、現場サイドは三沢、あるいは川田のメインを想定していた。   しかし、ファンが選んだのは秋山対大森だった。     この時の会場の盛り上がりを今でも私は覚えている。     セミファイナルまで3試合を消化。   残りはベイダー-三沢と秋山-大森であった。     この段階で秋山-大森が残っていること自体驚きであったが   会場のあちらこちらでこんな会話が聞かれ始めた。     「秋山-大森がメインなら番狂わせで面白いんじゃないか。」     セミフィナル、ベイダーの入場曲が流れ   会場はこの日一番というべき歓声が沸いた。     それは、メインイベントが   秋山-大森であると決定づける瞬間であったからだ。     この当時は秋山はまだ次世代のエースという立ち位置で   大森はその秋山にライバル心を燃やしている若手の一人だった。     その若手が武道館のメインを張る。   しかもファンがそれを後押ししたのだ。     試合は、場外のアックスボンバーなどで大森が攻め込むも   秋山がまだ俺には及ばないと貫禄の勝利。     試合後、「数年後三冠戦を戦おう。」   とがっちりと握手。     近い将来、チャンピオン秋山に挑戦する大森が見られるだろう。   誰もがそんな未来予想図を描きながら武道館を後にした。     翌2000年、チャンピオンカーニバル初戦で   再び秋山-大森が対戦。     この時は、大森の奇襲から秋山が  わずか7秒でカウント3を奪われるという大番狂わせを演じ、  このふたりのカードは全日本プロレスの  新しい看板カードへと成長していくかに見えた。       しかし…       時代は大御所ジャイアント馬場逝去から   すでに大きく動き出していたのだ。       秋山、大森共に三沢の立ち上げた新団体、プロレスリング・ノアへ移籍。     ライバル物語はノアに舞台を移すが、   突然ライバル物語に終止符が打たれる。       大森、ノアから永久追放。       アメリカへ武者修行に出た大森であったが   会社の許可なくアメリカの団体と接触。   ノアの資金でアメリカへ渡っているにもかかわらず   交渉をもったことに三沢が激怒。     大森は帰る場所を失った。     ライバル喪失で秋山も次第に輝きを失っていく。     当初は、三沢や小橋を挑発し戦いを挑み   若手の大きな壁としてそれなりの地位を築いていたが   やはりライバル不在により、秋山の良さが引き出されなくなっていく。     秋山は精神疾患により試合にコンスタントにでられなくなるなど   思い悩む事が多くなっていく。     大森はその後WJやゼロワンに所属するも   団体の興行不振などもあり渡り鳥を余儀なくされる。     そしてゼロワンを退団し、一時休業することになる。       あれほど未来の三冠戦を争うと思われたふたりが   その仲が裂かれると同時に輝きを失っていく。     この光景を目の当たりにした者からすると   やはり、プロレスには必ずライバルストーリが必要で   その関係が自力を養い、ファンを熱くすると感じる。         しかし、運命とは面白いものだ。     このふたりがまた引き合い、三冠戦を戦うことになるとは…       プロレス人気の陰りにより   他団体との試合が日常化した現在、   ノアの秋山は古巣全日本のリングにも   いく度となく足を踏み入れた。     そして、昨年念願の三冠ベルトを奪取。   その直後、秋山がある男を挑発した。       その男こそ大森隆男であった。       大森は、休養明け、主戦場を全日本プロレスに置いていた。     目の前でかつてのライバル秋山が三冠を奪った。     大森にはあの時の記憶が蘇ったに違いない。       1999年9月4日。   自身が敗れたリングで秋山が手を差し伸べて言った言葉。     「数年後三冠戦を戦おう。」     ずいぶんな遠回りだった。     プロレスの神にふたりは翻弄されながらも   約束の地に舞い戻ってきた。     三冠チャンピオン秋山   挑戦者大森として。       プロレスとは運命の縮図である。     それぞれが背負ってきた運命を   どのようにリングで表現するのか。     両雄には思いの丈を思いっきり体で表現し   我々を沸かせて欲しいと切に願っている。     

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2012年01月17日

死に場所を求める旅路

2009年、愛するヤンキースを世界一へと導き   シリーズMVPを獲得しながら   ヤンキースに残れなかった松井。     「ヤンキースで現役を終えたい。」と願った男の   切なる思いは叶う事はないと思われた。     終の棲家を追われた男は   失意のどん底にあった。     「もう、ニューヨークには帰れない。」     この時から、松井の死に場所を探す旅が始まったのだ。       2010年、そんな松井を迎え入れたのは   慣れ親しんだニューヨークとは反対側   西海岸のロサンゼルス・エンゼルスであった。     当初の松井に対する期待は大きく   ゴジラ旋風を期待するエンゼルスファンは   彼の背中を大きく後押しした。     しかし、彼は長きにわたる歴戦で   もう体はボロボロであった。     爆弾を抱える膝は思うようには動かない。     打撃にも、守備にも、もちろん走塁にも   その一歩一歩が松井を蝕んでいく。     36歳を超えた肉体は、疲労からの回復も遅くなった。   断続的に襲ってくるスランプ。     好不調の激しさはもはや本人の意思を超越しているかのようだった。       エンゼルスGMも「これほど調子の波が激しいとは。」と絶句し   現場での松井の評価も下がっていくばかりであった。     スタメン落ち、新人時代以来の代打を送られるという屈辱も味わった。     松井にとって、西海岸ロサンゼルスは   死に場所ではなかった。   そこに去来する物は死んでも死にきれないと言う思いだけだった。       わずか1年でエンゼルスを追われる事となった松井。       やり残したことがあると言う思いは   日に日に大きくなっていく。       彼はこう言っていた。   「これがマックスじゃない」と。     松井は新たな移籍先を探すべく   吉報を待つ日が続いた。     焦りの色も見えた。     「このまま終わるのか…   日本へは戻らないと硬く決めたからには筋を通そう。」       そんな松井の思いは天に届く。   アスレティックスが松井獲得に手を挙げた。     失意のロサンゼルスからオークランドへ。   ここが彼の死に場所となるのか。     2011年シーズン、松井は   グリーンのユニフォームを身にまとい再起を誓った。     日米通算2500安打、2年ぶりのサヨナラホームランを放つなど   随所で松井らしさを披露し、松井復活かと思わせることもあった。     しかし、徐々に成績は低迷。   開幕当初は5番DHに座ることが多かったが、   交流戦の始まる辺りから、ベンチに座ることも多かった。     更に、地元メディアも解雇せよとバッシングも酷くなり   松井の心は大きく傷ついていた。     「試合感を取り戻すためには、試合に出るしかない。」   そんな松井に転機が訪れる。     ボブ・メルビンが監督代行として   アスレティックスの指揮を取るようになると   松井を評価していたメルビンは3番DHで松井を起用するようになる。     その後日米通算500号本塁打を記録するなど、   松井らしさが蘇りつつあった。     しかし、シーズン全体を通して言えば   100試合以上出場したシーズンとしては、   過去最低の成績で終えてしまうことになる。         シーズン終了後、FAとなった松井は悲壮感が漂っていた。     「どこも拾ってくれなければ引退するだけ。」と。     日本球界への復帰も頑なに否定。   松井は、ただただ死に場所を求めていた。       そして迎えた2012年。     未だ去就が決まらぬ松井だが   古巣ヤンキースへの復帰が噂されている。     一度は脱がざるを得なかった愛するピンストライプ。   松井にこれほどふさわしい死に装束は他にない。     ひざの状態からして、そう長くはその雄姿を見られないはずだ。     だからこそ、彼には力尽きるその日まで   光り輝いていて欲しい。       松井もそう簡単に終わるつもりはないだろう。     燃え尽きるその日まで   死に場所を求める旅路は続いていく。     

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